2019 03 05

最近私は停滞していないだろうか。停滞している。と思った時は、変な話「停滞している」と思ってはいけないと戒めている。実際、生きる死ぬの問題で「死」の方向に向かっていなければ問題ない訳で。また、その方向に向かっていても別段死ななければ良い訳で。大切なのは何かを感じる事、学ぶ事、明日へのエネルギーを蓄える事だと思う。辛い事があって死んでしまった人、それでもと生き残った人。死んでしまった人は、無理をし過ぎたのだろうか。感情を止められなかったという事もあるだろう。何にしろ自ら望んで死んだ場合には私は特に何も思わないのだが、本当は生きたいのに死んでしまった人は本当に惜しい気持ちでいる。生きてさえいれば、と思うのは恐らく我儘なのだろう。私は少し人生の経験が足りないのかもしれない。死にたい気持ちは解る。生きたいという気持ちも解る。私はそれを上手く使って、何とか歩きだしていこう。あれ、なんか今日の文章イキってる気がする。本を書き上げた後で調子乗ってるんだろうか(笑)

2018 11 29

日記を毎日つけられる人は本当にすばらしい人だと思う。私はこのように気が向いた時にしか書くことは出来ない。都合の言い時に、都合の言い文章を載せている。今日の日の反省が出来る人は一体どんな頭をしているのだろう。本当に凄い。奇妙な話だが、私にとっては1日なんてのはただ「今」でしかなくて、昨日とか明日なんてものは更々ない心地がする。地球が太陽を回って、それに従っている為に、1周を区切ろうなんて至極疲れる話で自然的でないので私は余り気に入っていない。けれど区切らなければ何事も散らかったままなのだから、区切れるものは区切ってしまった方が良いのだと思う。人は今や規則的な生活でまるで機械的でもある。就職活動や勉強、仕事に規則正しく動いている。それは人の心を鈍くするのか、はたまた豊かにするのか、どちらなのだろう。私の考えは賛否両論である次第だ。

2018 11 08

 疲れた日は、創作意欲が湧いてきたりする。息抜きに落書きしてみたり、ピアノを弾いたり、様々な事に対してのやる気が満ち溢れくる感覚がある。

 けれどそれって正しい方向に進めているのかな?とは最近思ってしまう。疲れてる時に体を余計に働かせてしまったりすることは一種のランナーズハイみたいなものなのかもしれない。幻覚等もそうなんだろうけれど、人間限界な時、脳が凄く生きようとドーパミン的な何かを放出しているんじゃぁないかなぁ〜。興奮してる状態で造られるものが美しいのだろうか。いや、結局場合によるかもしれん。

 最近はよく死亡願望が強い人をみかけるけれど、脳みそは多分ちゃんと生きたいと思ってるんだろう。多分。